聖書とか神話って、だいたい男が考えて男が伝承してきたものだよね

聖書とか、神話って、だいたい男が考えて男が伝承していったよね、という仮説の殴り書き。

①男「男は女から生まれてくるが、なんとかして女に先立ちたい。だから原初は男の一部から女が生まれたことにしよう。」→『神がまず男を作り、男の一部から女を作る。あるいは男が女を作る。』(ユダヤイスラム、キリスト、ヒンドゥーにおける「はじまりの男女」の物語)
……これが根本的に無理筋。男も女も女体から産まれてくるという圧倒的現実への対抗として捻り出されたお話がこれ。いじらしさすら感じる。

②男「女とヤりたいけど、俺の中にその感情が生まれたのは、先に女が誘惑したからだ。女が誘惑しなければ平和に暮らせていたはずだ。最初に女が男を誘惑するのがいけないんだ。」→『女が神に禁じられた行為をして、更に男を誘惑したため、二人とも楽園を追放される』(アダムとイブ)
……男が女に勝手に欲情したのを、「女がエロいから」「女が誘ったから」ことにしてるだけ。うまく処理することのできなかった感情や行動の原因を他者に転嫁している。それがなぜか、人間の原罪は女の愚かさによって引き起こされたことになっている。
この世に言葉と文字が生まれた当時も、男が女の身体をじろじろ見たり言及したり触ったりしたんだろうなぁ…。当然それを女が拒んだり非難したりするから、「お前らが悪いんやぞ!」って言うためのお話を作ったんだなぁ…。ここ最近の痴漢の話題を思い出すな。

③男「いや、女も生まれた時は男と同様に純粋だったかもしれない。だけど悪い男女に色々吹き込まれて、誘惑に負けてしまうんだろう。だから、悪い女や、俺以外の男を悪魔に設定しとこう。」→『悪がまず女を唆し、女はその誘惑に負けて罪を犯した』(サタン、蛇とイブ)
……「俺は悪くない」のための装置でしかない。神話における最初の人間(男性格)は、要するに書き手・読み手の男が自己を重ねる存在。悪または罪(誘惑)の伝播が蛇→イブ→アダムの構造になっているバージョンでは、「人間」に原罪があると見せかけて実は「俺」の罪(罪責)が一番薄まっている。狡い。

④男「男と対等な立場を望むような女はムカつくから、なんとかして悪魔設定にしよう」→『最初の男女は同時に作られたので、女は男と対等であることを望んだ。しかしそれが叶わないので男のもとを離れた。女は、男の元へ戻らないなら子を殺すと天使に脅されたが、戻らず、子を苦しめる悪魔となった』(リリスの伝承)
……リリスの伝承は色々と混じってるし突っ込みどころ多いんだけど、男女対等を認めないのも、配偶者を脅す/操る/復讐するために「自分の」子を殺すというのも、まぁ女から出てくる発想ではない。
女親の実子殺しはもちろん現実に無いわけではないけど、女も子供も全部object扱いの、交渉材料としての子殺しは女の視点じゃないだろうね。

⑤男「なんかすごい奴がいるから祭り上げたいんだけど、そいつの父親が誰かわからないから母親は処女で生まれたことにしよう」→『マリア、処女懐妊』
……処女懐妊エピは未婚の子、不義の子、または娼婦の子というのを誤魔化すためと言われてるけど。
女体持ちは直観としてこの発想しないような。出産に至るとすれば、相手ありきだし、性交→妊娠→出産は全て自分の身体で・自分の経験として起こる出来事だし。
だいたい「奇蹟」が起こるなら、ヨセフが身籠っても良かったよね。荒唐無稽度合いは変わらんでしょ。

⑥あとはイザナミイザナギ
この男女の神は同時に生まれるんだけど、まず女 (神)が男(神)を誘って交わると障害児が産まれて、逆に男が女を誘うと健常児が産まれる。(障害のある子は海に流す…。)
障害をそういう扱いにするのもアレだし、「女が誘うのが悪い(被害者視点)」と「女から誘うのはよくない(支配者視点)」があるんだなぁ~と、感慨深い絶望を感じる。
イザナミは子を沢山生んで、最後の子を生んだ時に死ぬんだけど、イザナギはその子を殺す。「お前のせいでイザナミが死んだ!」って、最後に生まれた自分の息子を殺すんだよ、やばいよね。
イザナギイザナミのことが忘れられなくて、黄泉の国(あの世)に探しに行く。二人は再会するんだけど、醜く腐ったイザナミを見てイザナギは逃げる。これがもうよくわからない。
本当に愛した人、死んでも会いたい人に再会できたなら、腐ってたって側にいたいと思うのでは?
そんで逃げたイザナギに対して、イザナミは毎日1000人殺すとか言う。イザナギは毎日1500人産むとか言う。
既にイザナギが一人殺してるんだけど。

女は死んで黄泉に閉じ込められ、男一人で子を作り国を作っていく。ちなみにイザナギは最終的に育児放棄しますからね。

うん、確実に男が書いたでしょうこれは。
女側から見たら、
自分がリードした性交時の子は必ず障害があって、沢山子を生んで死んで、子を殺されて、死後の醜い自分を見られて、裏切られて、毎日1000人殺すキラーマシーンになる…なんだそれは…。

怖いのは、国産み・神産みの神話、民族のルーツとしてこれらの話がこの形で現代に残ってるということ。それは時の権力者がこれを遺してきたことを意味する。
「こんなのやばいよなぁ、どーしようもなく馬鹿で自分勝手なストーリーだよなぁ」と感じる有権者が一人でも居たら、近代までに編集・改竄・削除されてるだろうから。

改竄、されてるだろうが、されてこれ。
要するにそういうこと

性的暴行被害者への自業自得論

海外旅行に行ったら。

露出の多い服を着ていたら。

クラブ遊びが好きだったら。

人気のない夜道を一人で歩いていたら。

出会いを求めていたら。

ナンパに着いていったら。

前後不覚になるまでお酒を飲んだら。

密室で二人っきりになったら。

ラブホテルに入ったら。

同じ布団に入ったら。

付き合ったら、結婚したら。

上記のいずれかの状況において、本人の望まない性行為が強行された時に、「自業自得だ」「本人にも落ち度がある」と言う外野のひと。または加害の張本人。あるいは自分でそう思ってしまう被害者の方。
暴行は、無理矢理やった相手が100%悪いです。
法律ではもっと複雑ですが、その手前の、あるいは奥の、モラルの話です。

相手が嫌と言ったら続けてはいけない。
NOはNOを意味する。
一方がNOと言う限り、「合意と見なされる状況」というのは有り得ない。

また、「お店の人と一緒にお酒が飲める店」で許されることは、お酒を飲んでお喋りすることだけ。
「お店の人の体を触れる店」で許されるのは、許可されている部位に触れることだけ。
「性行為を撮影できる場所」で撮影が許されるのは、契約内容にある行為のみだ。その契約は、撮影される本人が、冷静に考えられる場所と時間を与えられた上で締結したものでなければならない。
対等かつ心身が自由な状態で、YESやOKを示した時にのみ、行為が許される。

上記に羅列した中の下三行については、「それは仕方ないんじゃないか」と思う人が多いかもしれない。だがやはり、相手がNOと言ったらその時点で行為を止めなくてはいけない。
夫婦間では、一定の営みが法的に認められ得るが、そこは二人の話し合いや交渉で決めていくことであって、法律や判例を持ち出して無理矢理していいことにはならない。

性的加害について、被害者の自業自得ということは有り得ない。相手にNOと言われたのに続けた方、相手がYESかNOか言えない状態で続けた方が100%悪い。

そういった認識が広まってほしいと思います。

ブラック企業に勤めてる奴

ブラックに勤めてる奴は今すぐ辞めろ。辞めろよ。何で続けてるんだ?辞めろ。
他に仕事がない?バイトでいいだろ。派遣もある。心と身体を壊したら終わりだ。今すぐ辞めなくてもいいから働きながら転職を試みろ。
そんな時間無い?そんなとこ辞めるべきだ。そのまま続けて未来は見えるか?
このままでいるしかない?そんなことない。少なくとも今そのブラックで働けているなら、他にも選択肢はある。絶対にある。世界は広い。諦めるな。せめてグレーを探せ。明度を上げろ。

やりたい仕事だから?高給だから?お前がいいならいいよ。でも心と身体を壊したら水の泡だぞ。あと頼むから次の世代に同じことを強要しないでくれよ。お前がお前の判断で納得して潰れるのは勝手だ。いや勝手じゃない、死ぬな、自分を大切にしろ、お前の判断力は既に鈍っている。やりたくないことをしろとは言わんが、やりたいことのために犠牲を払うのにも限度がある。そして犠牲を強要する側に回るのは絶対駄目だ。万が一そのブラックを経て成功しても、その経験を肯定しないでくれ。成功した奴が「あの経験があったから今がある」なんて言った日には、屍の山がひとつ増えるだけだ。もしその仕事や業界が好きなら、ブラックでなくする、ブラックを減らすことを考えてくれ。

いいか、残業時間を自慢するなよ。終電も徹夜も恥だと思え。無給の休出なんてシャレにならん。残業する奴は無能だと言ってるんじゃない。それが仕方のない状況であったにしろ、サビ残や労基法違反の働かせ方を許容していた自分は「加担していた」のだと認識しろ。大人なんだから。皆がNOを突きつけないことで社会の雰囲気が作られていくんだ。否定しないで追従するのは肯定と同じ。お前のサビ残で新卒の若者が死ぬ、そのくらいに捉えろ。NOを突き付けろ。

家族がいる?だったら辞めろ。家族を愛してるなら辞めろよ。努力の方向が違う。転職しろ。いいか、お前がフッと電車に飛び込んだ日には、遺族は地獄だぞ。高給激務ならともかく、不当な安月給で我慢してんじゃねえ。自分に酔うな。家族がいるなら頼れ。相談しろ。家族じゃなくてもいい、第三者に相談しろ。利用できるものは利用しろ。ブラックから逃れる努力をしろ。

法律は守らないといけない。法律はなんのためにある?人間のためだ。人間社会のためだ。現実に即さないと嘯く悪徳経営者、完成された社畜ども、現実に即さないと言うなら法律を変えろ。変えられるよう働きかけろ。法律を変えてから合法適法な労働をしろ/させろ。それが通らないなら、この社会ではお前が間違ってるんだよ。

週休も有給も産休も、労働者の権利だ。忙しいから有給が取れないのは仕方ない?自営業かお前。違うだろ。休め。ただでさえ少ない有給だ、完全消化しろ。お前が有給完全消化しないことで、新人や未来の社員の有給を奪ってると思え。

これから働こうとしてる人、あるいは社会人1~2年目の若い人達、ブラックだと気づいたらすぐに逃げろ。死ぬな、逃げろ。いくらでもやり直しはできる。違法は違法だ。不当な扱いには徹底的にNOを突き付けろ。会社に貢献できてないとか、利益を出せてないとか、そんなことで引け目を感じる必要はない。赤ん坊は泣くことが仕事だし、子供は遊ぶのが仕事、学生は勉強が本業だ。新社会人は、失敗し試行錯誤しながら成長していくのが仕事だ。後々利益を出すことを目標に、少しずつ学んでいけばいい。 業務時間内にな。

とにかく、違法労働には一人一人がNOを突きつけないといけない。わかってやってる経営者に関しては言うまでもないのだが、雇用されている側で、「仕方なく」働いてる奴。仕方なくなんてない。お前は悪くない、被害者だ、だけどその状態を受け入れたら既に加害者になりかかっている。大人として、いち社会人として、良くないものは良くないと言わねばならない。あなた達が、いや私たちが、日本社会の雰囲気を形成しているという認識を持とう。

ブラック企業はNO、違法労働はNOだ。

妻のことを嫁って呼ぶの、いいかげん止めよう

夫や夫の知人が、妻を「嫁」と呼ぶことについて。

現代の用例としてそれが間違いでないのはわかってる。わかっているが、「嫁」はやはり「息子(さん)の配偶者」の名詞としてのみ使ってほしい。基本的には「嫁」は「婿」と対応している。
結婚式では、新郎新婦を花婿と花嫁と呼ぶことがある。これは「婿と嫁」がそれぞれの親/家から見た立場を指しているからであって、一対一の関係では、お互いはあくまでも「夫」と「妻」である。婿と嫁の関係にはない。

男性が配偶者のことを「うちの嫁」と言ったり、その友人が「お前の嫁(さん)」と言っているのは比較的見聞きするが、
そういう人達は、自分が妻やその友人から「うちの婿」「あんたの婿」と呼ばれていても構わないのだろうか。
こういう時、「それは嫁が俺の名字に変えたからであって、もし俺が嫁の名字に変えてたら、嫁に婿と呼ばれていても納得できる」という反論もあるかもしれない。が、その場合の婿呼びが普通になったら、婚姻に際し女性の名字に変えてもいいという男性は今よりも減るだろう。その方が夫婦別姓も選択できるようになっていいかもしれないが。

以前流行った「○○は俺の嫁」というフレーズも、「俺の妻」ではなく嫁なのは、より「俺のもの」というニュアンスが強いからではないか。この場合の○○は人格を持った一人の自立した人間ではなく、単なる○○の所有権アピールに近い。二次元に配偶者がいる方は、試しに「○○は俺の妻」と言ってみてほしい。○○さんの存在が俄然リアルに立ち上ってくるのではないだろうか。

男性のほとんどは、なんでそんなこと気にするんだ、と思うかもしれない。既婚女性でも、私はそんなこと気にしないと思う人もいるかもしれない。
だけど、物事を捉えるということはまず言葉からはじまる。ほとんど形骸化しているような呼び名や漢字でも、些細なことが少しずつ、使う人の意識や関わり合い方に影響する。

妻の嫁呼びが浸透し、夫の婿呼びが皆無であることは、根本的に既婚女性を既婚男性より軽んじることに繋がりかねない。あるいは今の現状では、女性のみを家の付属品とする考え方がいつまでたっても消えない。
だから、些細なことだけど、嫁呼びは止めてほしい。

それでも嫁呼びを続ける男性は、なんで妻と言わずに嫁と言うのか、理由を教えてくれ。

藤原紀香は何であんなに叩かれてるの?

藤原紀香が結婚して、記者会見を開いた。 このことについて、テレビのニュースでもネットのニュースでも、謎の扱き下ろしがひどい。

何で?

コメント欄が叩きで溢れるのは嫉妬として理解はできるんだけど、メディアまでこぞってバッシング記事を書くのは何故なのか? バーニングの社長の指示なのか?

この件に関して叩いてない記事はあまり無かったんだけど、以下のような解説をしている記事があった。 

news.livedoor.com

“A氏が反対している結婚ということで、今回の愛之助の結婚についてならどれだけバッシングしても問題ないだろうというのが、スポーツ紙をはじめとする主要メディア側の判断なのです”とあるんだけど、それはバッシングすることでそのメディアが得するか、しなければ損するということ?

おめでたい発表の席で、何の落ち度もない女性に対して「嘘をついてる」「自分に酔ってる」「ドヤ顔」「でしゃばり」「梨園の妻失格」と罵倒するなんて、倫理的におかしいのでは。ひどいことに、そういう報道に対して反論した彼女を更に叩く記事も出ている。

Twitterでは、たとえば以下のようなツイートが1000以上RTされてる。

藤原紀香さんが「人として涙が出ました」ってコメンしてたんだけど、「ブタとして笑いました」とか「鳥として怒りました」とか聞いたことないし、やっぱり紀香の日本語は独特だなって思った。”

いやいや、「人として」の意味わかるでしょ。芸能人で、女優で、女性で、梨園の妻で、色んな立場を持つ彼女だけど、そういうの取っ払って、生身の一人の人間として傷ついたって訴えてるんだ。番組を作る人も、マイクを持つ人も、記事を書いた人も、それをネットに上げる人も、ツイートする人もRTする人も、諸々に反応してバッシングする人達も、皆同じ「人」という共通点があるわけで。同じ一人の人間として、彼女の気持ちを少しでも想像できないのだろうか。はっきり言ってこれはリンチである。(「私刑」の意味合いからすれば、彼女は罪を犯してないわけだから、リンチというより集団いじめの方が正しいかもしれない。)

百歩譲って、言動に落ち度があったならまだ理解できる(対象に落ち度があったならいつまでもどこまででも叩いていいという風潮は早く消えて欲しいが)。しかし、今回の件では彼女の言動に問題は無く、どのメディアも明らかに無理矢理難癖をつけていて、異常さが際立っている。

日本死ねとは言わないが、日本怖すぎるよ。

一人の女性が大切な人を見つけて、新しい一歩を踏み出そうとしてるんだから、普通に祝福してあげりゃいいじゃん。

なんだか気にくわない人っては、ほっとけばいい。あなたは藤原紀香の結婚に言及しない自由がある。

紀香さん、おめでとう、頑張れ。

男性が同性愛者を警戒するのは正当なこと

togetter.com

当該まとめの、大元のやり取りの真偽については言及しない。ただ、コメント欄や反応ツイートで、ヘテロ男性がゲイ男性に対し「恐い、嫌だ」と感じる感情や警戒心まで否定している方々がいて、それはちょっと違うのではないかと思った。
当該まとめを踏まえて、常々考えていたことを文章化してみる。一切、差別や偏見を肯定・擁護するものではない。ヘテロ男性に、女性と同じだけの警戒心を持つことを許容しようという旨の話である。

以下、一般的な話をする。(全部が全部そうというわけではない。様々な例外については言及しない。男・女はそれぞれ男体持ち・女体持ちと置き換えてもらってもいい)

①性欲の性質の違い:
男は男の性欲の衝動と性質を知っている。それは非常に強い衝動で、愛や恋と無関係ではなくとも、比例の関係にはない。行為としては能動的な欲求が多い(「されたい」よりも「したい」「入れたい」「させたい」等)。
女も女の性欲を知っている。恋愛感情との結び付きが強く、性的対象の幅が男に比べて狭い。受動的欲求であることが多い(「したい」はあっても、具体的な行為としては「こうされたい」が多い)。

そして事実として、性犯罪を犯すのは男の方が圧倒的に多い。

だから目の前に同性愛者がいた時に、男の方が、「自分が狙われるかも」と感じやすいのではないか。女が殆どの男に対して(その人が男である、というだけで)最低限の警戒をしているように。

②力関係の違い:
同人種間・成人・青年~中年に限って言うと、
男から見た女は、ほぼ自分より力が弱く小さい。
女から見た男は、ほぼ自分より力が強く大きい。
男から見た男は、自分と対等、または自分より強く大きい可能性もある。
女から見た女は、自分と対等、または自分より強く大きいとしても、一般的な男ほどではない。

したがって、同性から不当な方法で性的に狙われた場合、男と女ではその脅威の程度が全く異なる。

③身体構造の違い:
男→男女では、物理的に自分に穴があって、そこに入れられる性器と体液がある。
女→男女では、 道具なり身体の部位なり入れられる物はあれど、性器は入ってこない。

この点から考えても、女にとっての女は男以下の脅威にしかならない、しかし男にとっての男は女に比べ物にならない脅威である。ただしこの違いは、性的暴力があった場合の被害者の心の傷とは断じて無関係である。(ただ、大半の成人の男にとって、女から性欲を向けられた場合にそれが脅威とはならない。望まない行為による精神的苦痛や社会的脅威はあっても、抵抗敵わず性被害者となる可能性はほぼ無い。)

④経験の違い:
女は不幸にも、概ね年齢が一桁の頃から、自分に向けられる性欲というものについて、自分の中で整理してきていることが多い。少なくとも、そのことについて何も知らず、気づかず、被らないまま大人になれるのはレアケースである。
男はそうではない。
下品な言い方をすれば、ずっと狩る側の性で生きてきたから、狩られる側に回るのは耐えられないのではないか。
見方を変えれば、初めて同性愛者に直面した男は、まるで〈自分がまだ子供なのに、大人の男の性の対象になりうることを知った少女〉のような、絶望的な嫌悪感を感じるのではないか。「わたしはこの人たちにとって、そういう存在であるのだ。この、自分よりも強く大きい人たちに、そういう視線を持たれるということがあるのだ」という気付き、恐怖と嫌悪感。
その感情をうまく操れず、中には、同性愛者を攻撃してしまう人がいるのではないか。(それはいかなる場合にも許されることではない。しかし、被害にあったわけでなくとも、自分にそういう気持ちが向けられた時、あるいは身の回りにそういう人がいると知った時、恐怖や嫌悪感をただ覚えることは、責められることではない。)

男性は同性愛者とみれば警戒態勢を露にする人がいる。それはそれで仕方ないことだと思う。なぜなら女のように、男に対してそういった警戒心を隠しながら接することに慣れていないから。(もちろん、だからと言って非難や侮蔑は絶対に許されない。)

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以上、同性愛者に対する捉え方について、男女間には少なくとも4つの違いがあると私は考える。

冒頭の記事に対する反応で「ゲイがいる=俺が襲われる、と考える男性は、自分が女をいつも性的対象として見てると宣言しているようなもの」という旨の反応が散見されたが、それは大半の男にとってその通りで、男は女を、一人の人間である前に女という性的な存在として見てしまう傾向にある。あるいは、一人の人間として認め・尊重しようとしても、そこから性の要素を削ぎ落とすのは難しかったりする。
だからこそ、同性愛者に対する感覚が異なるのだ。

同性の同性愛者に対する感覚について述べたが、では異性の同性愛者に対する感覚はどうか。
異性愛者の男にとって同性愛者の女は、〈異性愛者の女以上に、自分を恋愛・性的対象として見てくれない〉存在であるが、
女にとって同性愛者の男は、〈自分を性的対象として見ないでくれる〉だけで異性愛者の男よりも安全であり、かつ、〈人間として見てくれる〉可能性のある存在なので、女は男に比べて同性愛に肯定的な人が多いのだと思う。

それから、男女の話。痴漢やセクハラの話が出た時に「お前みたいなのは痴漢されない、自意識過剰だ」と言う人がまれにいるが、それは全く見当外れだ。事実として〈女(の身体)というだけで〉痴漢する男がいる。そして痴漢とそれ以外の男を、被害に遭う前に判別することはできない。ならば、誰も望んでやっているわけではないが、自分を守るために全ての男を警戒するのは仕方ないことだ。

それって、同性愛者の痴漢とヘテロ(ストレート)の男性の関係についても、同じことが言えるのではないか。冒頭の記事の反応の中で、この構造に気づいている人も多かったが、そこで警戒心を持っている男性に対して「ゲイにだって選ぶ権利がある」などと責めるのは間違いだ。〈男(の身体)を持っているというだけで〉ゲイを警戒するのは、女の場合と同じ恐怖感に基づいているのだ、と認識すれば良いのではないか。(元記事の「友人」については擁護の仕様がないが、だからと言って、男性が同性愛者を警戒するのはおかしい、という理屈にはならない。)

近年、LGBTが認知され、知識も深まり、地位も向上してきている。それは非常に喜ばしいことである。ただ、LGBTの人も、LGBTに理解がある人も、他者が感じうる恐怖感や嫌悪感にも気を使ってあげてほしい。
攻撃されたら防御や反撃をするのは当然だが、自分がどこかで攻撃されたからって、別の、防御してるだけの誰かを攻撃しないように気を付けたい。
自戒を込めて。


追記:

こういう言い方はあまり好きではありませんが、便宜上わかりやすく言えば私は性的マイノリティ側です。だから、というわけではありませんが、LGBTが全て違っていて、また性的マイノリティの全てを包括していないことも理解しています。

そしていわゆる一般の男性(男体持ち・性自認男性・異性愛者)が、性の観点から言えばこの社会では一番強い立場に位置しているため、どきどき彼らに対して無意識に攻撃的になってしまったり、あるいは、少しくらいこっちの立場に立ってみろ、と思ってしまうことがあります。だからブコメ欄の方々が仰る気持ちも非常によくわかります。

ですが、それは違うと思いこの記事を書きました。

○女性が、男性からの性的関心およびそれに伴う加害行為に「慣れてる」「受け入れている」と書いたつもりはありません。表現が正確でなくすいません。
性的被害に遭って、心に傷を負っても、絶望しても、その傷が癒えなくても、精神面・行動面でなんとか生きていく術を身に付けていく(いかざるを得ない)ということです。その点で一般の成人男性と女性には相当な隔たりがあるということを書きたかった。
女性の殆どが、未成年の頃にそういった被害に遭っているのに、何事もなかったような顔をして学校や職場で過ごしている(ように他人からは見える)んですよね。「それがそういうものである」とまず認識した上で、生きていくために現実に対処していく、という表現が正しいでしょうか。もちろんそれが上手く出来ない人もいます。それができない人は、自殺したり、引きこもったり、男性と関わらなくて済む環境を探さなくてはならない。だからいっそう、性的被害者を攻撃する人、他者の被害や心情を軽く見る人、被害に遭わないよう防御することを嘲笑う人、が恐ろしいんです。
それって、男性の(同性からの)性犯罪被害者も全く同じなんですよね。

○文中で意図している「正当な警戒」とは、例えば
・よく知らない相手と密室で二人っきりになることを避ける
・性別の区別があるスペースでバッティングすることを避ける(トイレ、更衣室、銭湯等)
・どの部位であっても身体的接触を避ける
・相手を勘違いさせないような対応を心掛ける
というようなものです。
同性(特に男性)間において、このような警戒をしている方が批難されるケースがありますが、これらについては認められるべきと考えます。

一橋大学の事件についての言及ではありません。