批判・フィクションと現実・性的搾取・ゾーニング・ポリコレなど

※この文章は性暴力被害に関する描写を含みますのでご注意ください。

「『妹の姉』の問題点」記事へのコメント(ほぼ非表示)・ブコメ・言及されたブログ等の中で多かった批判と気になった意見について述べる。

①「〈べき〉〈しなければならない〉〈社会正義を語る〉〈自分が絶対的に正しいと思ってる〉〈意見を押し付ける〉〈ただ自分の感想や気持ちだけ述べていれば良かったのに、それを社会正義の話に結びつける〉のが気に食わない、不遜だ、傲慢だ、上から目線だ」
→誰になんと言われようと「社会は子供を守るべき」だし、「本人の身体は本人のものであり侵害されてはならない」し、「社会には子供を性的に扱わないという建前が必要」と言い切れる。大人が公共の場で子供を性的表象として扱うべきでない。そこに議論の余地があると言いたい人はちゃんと文章にしてどういう主張なのかを教えてほしい。
もちろんどんな建前があっても如何なる社会でも犯罪は起こり得る、でも建前を社会が共有してるとしてないでは大きく違う。これは個人のお気持ちではなくて社会正義の話。我々が生きる社会がどうあるべきかの話。

あと、自分の記事やtogetterまとめに対するコメントで「『べき』を使うべきじゃない」「自分のお気持ちを基準に他者を批判するべきじゃない」とハッキリ言えないために、ご自身の主張の前後に「矛盾になっちゃうけど」「この発言もそうなんだけど」的なことを書いてる人が散見されたんだけど、いやハッキリ言えば良くないか?

なんでそんなに批判や「べき」が嫌なのだろうか?自分の考えを述べる時に「〜ゆえに〜べき」、「〜べき、なぜなら〜」って言うの何もおかしくないと思うんだけど。

「俺/私はそうは思わない、なぜなら〜」って話を展開すればいいし、間違ってると思うならそこを批判したらいい。自分が所属している共同体の、自分が思う「あるべき姿」を語ることが何故傲慢で不遜なのだろうか。
というか何割かの人はもしかしたら正義アレルギーなのかな。お前に社会正義を語る資格は無い、でも俺にも無い、誰もそんな資格持ってない、の??あるいはどういう文脈でどういう背景があってどういう語り口だったら語る資格があると思ってるのか気になる。

②「子供」とは?
→子供/児童/少年少女/未成年者/学生など、自分の主張の中で「社会において庇護対象となるべき年齢」に揺れがあったのは自覚している。婚姻可能年齢や性的合意年齢を引き上げようという声があることと、選挙権を持つ年齢が下がったことと、平均的な知能/知識/経験と体格から言えばそのラインは18歳が妥当かなと思う。
18歳以上は全て自己責任という話ではなくてね。

③「フィクションと現実の区別がついてないんじゃないか」
→これ本当に誤解されやすいんだけど、(少なくとも自分は)フィクションの中の倫理観を現実の倫理観で裁きたいんじゃなくて、現実では許されないこと・現実ではありえないことを肯定的に(無批判に)描いたフィクションが現実世界に与える影響、を危惧してる。
現実と創作、二次元と三次元は無関係ではないので。(ここでいう現実とは人間の考えや行動、暮らし、その年代の空気、倫理観や価値観、法律、社会を構成する様々な集団等、現実の社会そのもののこと。)

④「暴力や犯罪を肯定的に描いた作品はどうなのか」
→まず性を扱うフィクションは、その他のフィクションに比べて誤解を与えやすい。
殴る蹴るの暴力や殺人・財産資産の盗難・所有物の破壊などは年齢性別その他属性に関わらず被害者の感覚を想像しやすいし、そもそも財産であれば金額で、怪我であれば完治までの期間等で被害を定量化しやすいので、現実の法律や罰則がしっかり作られている。(もちろん時代に合わせて不備は出てくるが)

それに対して性犯罪・性的搾取は被害の質が異なる。
殴る蹴るの暴力を伴う性的暴行や、強制性交の性器や口腔の傷を別にすれば、被害者は他者からは一見何も損なわれてないように見える。被害が外から見えない、被害を定量化しづらい、そして個人の感じ方の差が大きい。男女の身体の非対称性もあるし、経験してみないとわからないことも多い(男性→女性だけでなく、女性が男性被害者の気持ちを想像するのも難しいと思う)。また同じ属性や似たような経験を持っている人でさえ、他者の被害の深刻さや辛さ苦しさを簡単には推し量れない。だから下手すると「被害者も気持ち良かったんじゃないか、楽しんでたんじゃないか」みたいな最悪のセカンドレイプ発言をする人もいる。殴られた人や強盗に遭った人にそんなことを言う人はいないのに。
ゆえに性犯罪や性的搾取を創作で描く時はより慎重になるべきという考え。

それはそれとして、差別に関わる表現や巧妙な戦争賛美などは上記同様に自分事として想像しづらいことも多く、プロパガンダの効能を考えればこちらも慎重になる必要はあって、当然批判の対象になり得るだろう。それらの創作物を全部チェックして同等に批判しろと言われても困るが。

⑤「嫌なら見るな(not for you/me)」
→それを言えるのはゾーニングが成されているもの、レイティングがついてるもの、注意書きがあるものに対してだけ。例えば黒人差別を助長するような表現を描いた作品があったとして、それが白人向けに描かれていたとしたら黒人が口を出すべきではないのだろうか?むしろ黒人は当事者だし、白人だろうと黒人だろうとどの人種であろうと、批判は自由なはずである。
また「あなた」は絶対にフィクションと現実を混同しない、フィクションとわかっていれば何の影響も受けないのかもしれないが、世の中にはそうでない人もいる。フィクションの受け取り方、感じ方、知識や人生経験、全て人それぞれであるからこそゾーニングレイティング注意書きが必要という話。あるいは「嫌と言われたくないなら隠せ」である。

それから③④⑤共通で言及したいこととして、日本のAVはゾーニングもレイティングもされてるフィクションのはずなんだけど、そこから良くない影響を受けてる人は多い。ガシ○ンする(女性器を激しく乱暴に弄る)、胸部をしつこく強く触る、何度も激しく突く、潮を吹かせようとする、女性側が嫌と言いながら最後は受け入れる、他にもあるだろうけど要するにそういうものを現実と混同する人がいる。ゾーニングレイティング注意書きされてもなお現実に悪影響を与える創作物は、中身に批判がいくこともある。

twitterの鍵無し垢のtweet、あるいはwwwに公開されているもの
→アクセスできない国や地域を除くほぼ全世界に公開されている。手前に年齢認証や注意書きが無い状態であれば、全世界の老若男女どんな人でも目にする可能性がある。
つまりゾーニングレイティングの無い状態。

⑦「それは作者(作家・芸術家)に求めることなのか?」
→これは思うところがあって、色々書いてるうちに自分としては一番「編集者」に頑張ってもらいたいんだなと気づいた。
もちろん作者も成人ならば一人の大人であり社会の構成員ではあるけど、天才的な作家の才能や個性が社会への忖度で損なわれることは確かに損失だと思う。それはオタクとして理解できる。「そんなんで失われるくらいならその程度の才能」という意見もあるけど、自分が求めていても形にできない何か、自分が想像もできなかった何か、を描いてくれる人の存在はでかい。表現者としての責任は常にあるけども、少なくとも法人と契約してるのであればその作品を世に出したことのケツ持ちは媒体側にある。とりあえず少年ジャンプ+は「少年」の二文字を消したらいいのにと思う。

⑧ポリコレという言葉について
→「ポリティカルコレクトネス」は政治的正しさとか妥当性って訳されるので、イコール絶対的正義や正当性のことではない。ポリコレに近い日本語の概念って「体裁」かと思う。ポリコレを唱える人が求めてるのは、絶対的正義ではなくて「他者に配慮していますよというポーズ」なんじゃないかな。少なくとも自分はそう。一定の人が傷ついたり不愉快になるような、現実の倫理観とは異なる創作物を世に出しておいて、他者に配慮してますよというポーズ(ゾーニングレイティング注意書き)さえ取らなくなったら規制を厳しくされる可能性は上がるよ。